創立者・初代校主 吉田源應大僧正
生年月日 | 嘉永2年6月10日(1849年) |
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御遷化 | 昭和2年7月25日(1927年) |
出生地 | 尾張国(現在の愛知県春日井市) |
万延元年(1860年)9月 | 尾張尊壽院住職 円龍僧正の下で得度し天台宗の僧となられる |
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明治22年(1889年) | 四天王寺住職 |
明治31年(1898年) | 大僧正の極位に進まれる |
明治35年(1902年)12月 | 探題の栄位に昇られる |
明治36年(1903年)7月 | 国師の徳号を受けられる |
明治36年(1903年)11月 | 天台座主(第242世)に上任される |
明治37年(1904年)10月 | 国宝の徳号を受けられる |
明治37年(1904年)10月 | 四天王寺復興の為、天台座主を辞する |
明治39年(1906年) | 「頌徳鐘」を鋳造(157トンの世界一の大梵鐘) |
大正7年(1918年)4月 | 再び天台座主(第245世)に上任される |
大正11年(1922年)4月 | 天王寺高等女学校を創立される |
大正11年(1922年)4月 | 天王寺高等女学校を経営、校主となられる聖徳太子御忌1300年記念事業として、吉田源應大僧正は太子敬田の業績を守り継ぐものである「敬田院」を人間教育の道場として現代に継承される |
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大正13年(1924年) | 4年制を改め5年制の高等女学校とされる |
大正14年(1925年) | 私財十数万円を投じ、住吉区天王寺町より現在地に移転を決められる |
昭和2年(1927年) | 四天王寺境内にて新校舎の地鎮祭を行われる |
昭和2年(1927年)7月25日 | ご遷化 |
昭和4年(1929年) | 吉田源應大僧正銅像除幕式・新校舎落成祝賀式挙行される |
1922年(大正11年)、「四天王寺学園」の前身である「天王寺高等女学校」が創立されました。
時代が要請する婦女子育成のために、仏教を基礎とする全人教育が大切との信念で、
創立者 吉田源應大僧正の慈悲の心により発足しました。
私たち四天王寺学園は、大僧正の信念を広く世の中へ伝えるとともに、
次代を担う学生たちの全人教育に活かして参ります。
538年中国より伝来した仏教は日本国内で広がっていきましたが、その後国内では新しい宗教である仏教を支持する蘇我氏と、日本古来の宗教を推す物部氏の二大豪族が対立しました。
この時16歳の聖徳太子は、仏教の布教拡大を支持し、物部氏との戦いに臨むにあたり、仏の尖兵である四天王に勝利の祈願をおこないました。
戦いに勝利した聖徳太子は、四天王に対する祈願成就への感謝の意を込めて、593年(推古元年)我が国仏法最初の大寺として、四天王寺を難波の荒陵(あらはか)の丘に建立されたのです。
四天王寺が建立された地は、当時大阪湾の入り口に当たり、交易の要所として都であった飛鳥京と密接な関係を保ち、且つ外国に対して国威を示すにも格好の地でありました。
四天王寺は「四箇院制度」の下、広く一般民衆にも手を差し伸べ「太子信仰」の拠点となると同時に、庶民救済の中心となってゆくのです。
尚、四天王寺は長らく「天台宗」に属しておりましたが、戦後「天台宗」からの独立宣言をし、聖徳太子の「十七条憲法」の「和を以て貴しとなす」の精神から宗派として「和宗」と命名、今日の「和宗総本山四天王寺」となりました。
聖徳太子は、四天王寺に、仏教精神を具現化する為に「四箇院の制」を設けられました。
四箇院とは、敬田院(きょうでんいん)、施薬院(せやくいん)、療病院(りょうびょういん)、悲田院(ひでんいん)の4つの事で、中でも敬田院は、一切衆生が帰依渇仰し、断悪修善を為し、仏の境地に到るところ、つまり仏法修行の道場となる場所を意味します。
施薬院は病気の人に薬を施す場所を意味します。療病院は、病気の人を治療し癒す場所、悲田院は、生活に困窮したり、身寄りのない人を収容する場所として設けられました。
これらの精神は現在において、敬田院は「宗教法人 和宗総本山四天王寺」「学校法人 四天王寺学園」に、施薬院、療病院、悲田院は「社会福祉法人 四天王寺福祉事業団」に受け継がれています。
聖徳太子が設けられた四箇院の制の一つに敬田院がありますが、その敬田院は、慈悲共生を使命として生きる、立派な人格者を育成するという現在における教育事業にあたります。 そして、聖徳太子御忌1300年を迎えた大正11年、聖徳太子の敬田院事業のご精神を継承する学校として、今日の「四天王寺学園」の前身たる「天王寺高等女学校」が創立されました。 そもそも当時の学校は、他法人であった為、その所在地は大阪市住吉区天王寺町にあり、学校の経営状態はおもわしくなく、在校生徒の処遇を心配する大阪府よりの懇請もあり、敬田院事業の実践たる場として、世相に鑑み社会に資する女性の育成を掲げた当時の吉田源應大僧正の決断によって、学園は新たな学校として発足したのでした。 そしてその校主(経営責任者)には、吉田源應大僧正が就任され、校長は児玉光栄氏が就任しました。
しかしながら、既設の経営不振の学校を引き継いで、これを四天王寺の名において経営する事は、学校を新設するよりもかえって、容易ならぬ困難な事業でありました。
その様な状況下で、あえてこれをなさしめたものは、何といっても私財を投げ打って女学校の経営に取り組まれた吉田源應大僧正の卓越した識見と、前途に悩む生徒らへの厚い慈悲の心があればこその決断であったと言えます。
2年後、校主であられる吉田源應大僧正が校長を兼務されることとなり、実践佛教を基とした全人教育への本格的歩みを踏み出していくのですが、これに伴い、校舎新築移転の計画がなされ、かくて聖徳太子信仰の中心たる敬田院の故地である四天王寺に、近代的な学校として建設され、今日への揺るぎない基盤が築かれたのです。
新校舎の建設には色々な苦労がありました。
中でも新築する限りは四天王寺として恥ずかしくないものを造るという校主兼校長であられる吉田源應大僧正の方針で近代的な校舎が造られていくのですが、吉田源應大僧正自らも私財の一部を投じてその完成に寄与された事は、後世の私たちが決して忘れてはならない事実です。
新校舎は昭和3年に完成し「天王寺高等女学校」は、今日の四天王寺境内に移転しますが、吉田源應大僧正はその完成を見ることなく昭和2年に御遷化されました。
昭和3年2月22日、校舎落成に合わせ、吉田源應大僧正の銅像※を除幕して、ながく学園創始の偉業を讃えつつ、そのお姿は今日に至るまで学園を見守ってくださっておられます。
その後、学園は第二次世界大戦後の学制改革に伴い、昭和22年四天王寺中学校が設立され、翌23年には、「天王寺高等女学校」を「四天王寺高等学校」と改称し、初代校主吉田源應大僧正が希求なされた女子教育を実践する日本を代表する学校として、歴史を刻み続けております。